2017年4月22日土曜日

表演練習の仕上げ

近所の体育館で、追い込み練習。
15回套路を通した。先輩方の速いペースに合わせて動けるよう、練習でも速いペースを心がけた。
套路はきつい。ヒーヒー言う。そのくせ早く動けてはいないし、形も乱れている。
なにが先輩方と違うんだろう。
思い至ったのは、丁寧に動いた方が早く動けるようになるのでは、ということ。
丁寧にやろう。正しい架式、歩法、ファンソン。そうしたら、なにか気が流れたような、目の覚めるような感覚を覚えた。10回通した後だけど、きつくない。ファンソンもなんとなく良い感じにできているようだ。
気とかオカルティックなことは考えてないが、なんとなくまた套路が進化した感じだ。
表演1週間前、ここに来て、まだ進化するか。練習するものだな。
さらに5回通して、感覚を身に刻みつけて練習を終えた。
進化したかな。

2017年4月15日土曜日

書籍「日本の下層社会」を読む

ひどいタイトルだなあ、と思わずうなってしまう。
この本は明治31年に、新聞記者 横山源之助氏の手で上梓された、タイトル通り当時の下層階層の人々の実態を綴った本だ。

凄いのは、車夫、大道芸人、織工、小作人など具体的な職名を挙げて彼らを貧民であると定義し、彼らの1日に必要な生活費と実際の収入を具体的に記し、〇〇市△△町に多く居住すると紹介している点だ。
今じゃ無理。アウトである。
もちろん、著者は彼らを蔑んでいるのではない。揶揄したり下世話な好奇の心で披露しているのでもない。
彼らの雇用主に対して義憤を覚え、怠惰に流れる職人に疑問を呈し、あるいは叱咤し(心の中で)、総じて社会正義に溢れた論調となっている。
明治の時代の、あまり目に触れない人々の生活を垣間見ることが出来るし、知っていると思っていることでも、違った側面を知ることが出来て興味が尽きない。

大阪の慈善家、という章があり、小林佐平なる人物が紹介されている。
後の資料(つまり、今現在出回っている資料)では、彼は侠客、慈善活動家、事業家として概ね好意的に描かれている。
さて、実際に取材に基づいたこの本では、どのように描かれているか。

まず本人宅は、「何人の住居やらんと思わるるまでに建築厳か」だ。
そして彼が授産施設で雇っている職人(未成年の住み込みの障害者)といえば、
賃金は「悉皆(全部)小林氏に納め」、「もとより1厘をも児童に手にせしめず」。
勤務時間は皆朝5時に起き、すぐに労働に服し、3時か5時が終業となる。
休日は月に「1日と16日の2日なり」。
休日と言えども、「1歩だも外に出づるを許さず」。
彼らが寝起きする部屋は、10畳程の広さで、模範児童にあてがわれた古い畳が4畳敷いてあるのみで、いつ掃除したのだろうかが気になる程の状態だ。
出会った児童は皆頭を下げてくるが、
「群れる児童について健全の容貌を有せるものを見出さんと苦しみたれども得ざりき。
多くは顔色衰えてまぶたの辺り爛(ただ)れたるもの、頭上にクサある者、最も多し。」

取材を終えた横山は帰り際、「小林遊園場と記せる庭園に何心なく足を入れたり」。
そしてそこで、「真正面に袴を穿ち、扇を手にして指揮せる一巨漢」・小林佐平の銅像を目の当たりにする。

珍しく、この章では義憤も、嘆息も、読者への呼びかけもなく、ありのままを坦々と綴っている。
しかしただ一箇所だけ、「臆面もなく」という表現が使われている。
取材させて頂き、また、行政に顔がきき、まかりなりにも社会的な名声を得ている小林佐平に対しての配慮が文間から読み取れるが、横山はおそらく激しい違和感を覚えている。

障害者、それも未成年者が飼い殺しにされている現状を見、今に伝えてくれたことに敬意を表したい。
小林なる人物に関する資料の多くは書き直されるべきだろう。

再来週は台北か・・・!

再来週は、いよいよ台北。初の表演が、よりによって新生国術館の記念式典とは。
今更ながらドキドキしてきた。
2ヶ月間の練習は、この日のためだ。自分を信じよう。きっと良い結果で終われる。
その後は日台の偉い人達を交えての懇親会。またなにか、人生が良い方向へ開けそうな気がする。・・・
きっと白猿偸桃という套路は、自分にとって格別に思い入れのあるものになると思う。
それにしても、非常に豪気に溢れた力強い套路だ。
今日も体育館で自主練習したが、套路はゆっくり通していたらダメだと思った(特に白猿偸桃は)。リズムや重心の使い方など、ある程度早く動かないと体感できない要素がある。
おそらく、そこをきちんと抑えないと、歩法や架式が正しく出来ないのではないか、と思う。
同じ套路ばかり続けてやっていると、なんとなく煮詰まりそうなので、白猿偸桃と十八叟を交代でやっている。豪気と端正を行ったり来たりだ。

2017年4月1日土曜日

武道放話

時間を見つけて、近所の体育館に武術の練習に行っている。
大野城市とは違い、福岡市のここでは、何をやるのかで使える部屋が決められている。
具体的に言えば、球技のコートがある部屋や、ダンベルやヨガマットが備えてある部屋では武術ができない。で、「武」関係者は皆、武道室一箇所に集められて、お互い場所を融通しあっての練習となる。

おかげで、色々な他の団体を見て、色々考えている。
人は「武道」って聞いて、どんなことを思うだろうか。
厳しい自己管理、躾、掃除、縦社会、ひょっとしたら取っ付きにくさ。・・・
女性や子供たちは、怖いと感じているかもしれない。

僕の中では、武道とは厳しい自己節制や礼儀正しさ、思いやり、そんな印象である。
だって”道”ってわざわざ言っているくらいだし。

いろんな団体と、同じ部屋で同じ時間帯に練習をしている。
たいていの団体は、練習が終わっても掃除をしないでそのまま帰っている。
こんにちは、こんばんは、お疲れ様が言えない。
そもそも話が多くて体を動かしていない。
門下生が掃除をして、他の団体に挨拶をして帰っているのに、肝心の先生様が掃除もせず、放談しながらお帰りになっているところもある。

先生方も、本業の合間にボランティア同然に指導をして、お忙しい中のご苦労ではあると思う。
とは言え、ご指導の内容が、名もない小さな地区大会で勝ち残るためのテクニックに終始していたり、なんとなくご自身のストレス発散だったり、それでは教えられる方は、礼儀も身に付かず常識も学べず、本当に厳しい練習にはなっていないから、思いやりも身に付かない。
学生の間に”段”までは取って、社会人になったら辞めてしまい、子供の頃のなんとなく良い思い出で「武道」を終わらせてしまう。”道”に至らない。
エクササイズか今風に言えばワークアウトか。

僕が求め過ぎなのか。