2017年3月27日月曜日

再読 増補 江戸百話

目次を見てもわかるが、きっちり百話、江戸末期の様々が収められている。
加えて、増補として、明治初期に没落した(三井に取って代わられた)豪商・三谷家の元使用人が語る、ほのぼのとして切ない思い出話が付されている。

この百話は、いずれも明治中頃の老人たちによって語られている。
青年期に体験した、明治維新以前の暮らしを、モウ5、60年前のお話ですが・・・と語り聴かせてくれる。
彼らが語る、正月三が日の深夜、浅草門付近で侍の斬り合いに遭遇し、這々の体で逃げ出した話。
桜田門外の変を聞き、直後の現場を見に行った男の話(「桜田御門に向かっては馬上具足に身を固め、向う鉢巻の年輩二十歳ぐらいの士(さむらい)、小脇に手槍を抱込み来たるなんど、その顔の雪に映じて蒼味をおびた様子」と、遭遇した侍の様子を述懐し、平安に慣れた身でも、戦いとなると人はこんなにも変わるものだと感じ入っている)、等。

特に心に残ったのは、肥前佐賀鍋島家の、夜の大名行列に遭遇したお爺さんの話だ。
ハイ私は本年七十八歳でございます。・・・と語り出す老爺。彼が遭遇した夜の大名行列とは、こんな様子だ。
御紋の付いた提灯が、9尺おきに27ケ×2列も並ぶ、綺羅星のような大名行列。提灯をかざす人の背丈まで揃えたのか、一分一厘の上下もない。
この光の列が、咳ひとつなく、シトシトと夜の通りを過ぎて行く。
夢のようだったと話すが、聞かされるこちらもその光景を想像し、思わずうっとりとしてしまう。
また、50年ほど昔のある夜、女の子を連れた職人風の男に、道中でしるこを呉れるよう頼まれている(お爺さんは、2代続く露天のしるこ屋だ)。
夜更けにしるこを食わせてやろうと子供を連れてきた職人にも、なんだか切ないドラマを感ぜられずにいられない。
総じて、もったいぶったり格好つけたりする必要のない人たちが、良いも悪いも当時を振り返り、もう時効でしょうからとなかなかそそられる話を聞かせてくれている。

話が収集されたのが明治30年後半。よくぞここまで収集し、資料として遺してくれたものだと感心せずにいられない。

2017年3月24日金曜日

読了:天狗芸術論・猫の妙術

両作共、江戸時代中期の武士・佚斎 樗山(イッサイ チョザン)による武芸の心得を説いた本だ。

天狗芸術論は、武芸者が山中に天狗を求め、武芸上達の秘訣を聞き出そうとする物語、猫の〜は、誰も捉えることのできなかったネズミを事もなさげに捕らえてみせた老猫が、仲間にせがまれて語る武芸の極意(ネズミ捕りの極意?)。
戦おうと気負う程負ける、かと言って明鏡止水・泰然自若を求めようとするほどその作為が敗けを呼ぶ、じゃあどうしたら良いの?そこが極意、という事で。・・・
宮本武蔵の五輪書が、例えば立ち方・歩の進め方、刀の握り方、目線の付け方など具体的に”戦い方”を指南しているのに対し、こちらは心の有り様を語り尽くしている。
そして、どちらも、「刀だけじゃダメだぞ、勉強もしろよ」と釘を刺している。

両作とも1回通読して、ああ分かった成る程ね、では終わらない。なにしろここで語られるのは、長い年月、コツコツと修行を重ねても果たして到達できるかどうかの境地だ。
それは例えてみれば、遥か彼方の山の頂だ。
薄ぼんやりとしか見えないが、向かうべき先が示してある。
すぐに行き先を誤ってしまいそうになる僕にとって、これほどありがたいことはない。

気になる方は、アマゾンにリンクを貼りますので見てみて下さい。
天狗芸術論・猫の妙術

2017年3月23日木曜日

AirPods購入

1ヶ月半前に注文をしていたAirPodsが届いた。
じつに6週間待ち。人気なのだろう。
iPodをよく使っているのだが、イヤフォンのケーブルの邪魔なことといったらない。
これさえなければ・・・と、いつも思っていたので、エアポッドは待ちに待っていた商品だ。
ワイヤレス関係は、本体との関連づけ(ペアリング)が面倒くさい、と聞いていたが、さすがアップル製品同士、エアポッドのケースの蓋をiPhoneのそばで開くだけで自動でペアリングできてしまった。
そのほか、耳に装着したら再生開始、耳から外したら一時停止とか1歩先を行く仕事ぶりに感心。さすがアップル。

2017年3月11日土曜日

新生国術館40周年記念式典に向けて

来たる4月30日、長拳螳螂門総本部である台湾の新生国術館の設立40周年記念式典が開催される。
九州分会の表演メンバーの1人として参加させていただくことになり、お目汚しにならないように練習に励んでいる。

表演は、白猿偸桃という套路を行う。低い姿勢で腕や肘を振り回す、力強い印象だ。
これを学んだのが1月末。あとはほぼ毎日、個人練習で磨いている。家にいるときは台所で、近所の体育館に行ければ武道室を借りて10回通し。
套路だけやっても意味がないので、摔手や架式も一緒に行う。
この寒い中、汗ブルブルかいてシャツいっちょだ。

動きは覚えた。拍は良い音出てるし、少ない練習期間の割には我ながら結構動きいいんじゃない、と思っていたのだが、見る人が見ればやはり評価は厳しかった。
指摘を受けたときは軽く落ち込んだりもしたのだが、練習するしかない。
同じ箇所を次にまた言われないように、散漫にならないように気をつけて練習を繰り返している。

功夫の練習をするときは、鏡を見ないようにしている。必要な動きはすべて、自分の体が教えてくれると思っている。
鏡を見ると、頭の中で考えた「正しい動き」と自分の実際の動作を比較してしまう。自分の体の信号よりも、理屈を優先させてしまうのだ。
そういう練習が大切なことも理解はしている。が、例えばゆうべYoutubeで見たどこかの達人のカッコいい動きは、その人のキャリア、年齢、体格だからこその動きであり、その人ならではのものだ。そういうバックボーンが全く違う僕が真似をしても意味がない。角度がどうだ、タイミングがどうだと同じように合わせても、なぜそうなのか、必然性まで深く理解することなく、上手に真似できました、で終わってしまう恐れがある。

必要なことは、自分の体に聴く。その態勢で本当に突けるか、蹴れるか、投げることはできるか、かわせるのか、変な重心になっていなかったか、足が疲れたからと雑な動きになっていないか、etc。
鏡に写る自分の姿を見ながら動くよりも、自分の体が発する信号を拾い上げ、動きの精度を高めていく、そして目の前に呼び出したバーチャルリアリティな仮想敵を見ながら動くほうが、今の自分のは必要と考えている。

という考えで、今日も近所の体育館で汗を流してきたのだが、ふと壁に写る自分の影を見てしまった。で、思ったのは、あ、これは下手くそだ。ということ。
影ってのがよかったのだろうな。どこか体の一部分にピンポイントに意識が持っていかれることなく、全体を漫然と把握できた。
例えば腕だけ、足だけ、と切り出せば、そこそこの動きはできているみたいだ。
が、動きから迫力が伝わらない。これはなんでだろう・・・気迫の問題かな。