2015年7月16日木曜日

真正面に立つ

人を指導する立場になって、その大変さ、大切さにやっと気がついてきた。
読む人によっては誤解を生むと思うが、育てたい人のわがままを、どこまで聞いてあげられるかが大切な気がする。

よく、言いたいことを言ってください、とか、思っていることを話して下さいと、いわゆる先輩と呼ばれる人たちは問いかけるが、その場で言えることなんてどう考えても限られている。聞く側にも問題があり、聞きたいことや予測していることしか聞こえてこない(人間とはそういうものだ)。
だから僕は、そういう問いかけはしない。普段の仕草を見る。わがままを見せてもらう。
ため息をついてダラダラと動いている。それがその人の”言いたいこと”だ。言葉が姿に現れている。しかも、とても正直に。
その意思表示をどう受け止めるか。そこから何を読み取り、どう対処するか。
真っ直ぐな定規を背中に当てて、曲がった姿勢を自覚させて叱り飛ばすのもひとつの方法だ。
言い聞かせて、励ますのも方法。
が、たいていの場合、本人は、自分が曲がってしまっていることを自覚している。そして、やはりたいていの場合、これじゃダメだ、と、わかっている。
なのになんで曲がっているの?そこに興味を持つのが先輩に必要な感性であり、経験を知恵に変えて導き、解決を促すのが力だと思う。

ただ、ひょっとしたら、彼の姿勢をひん曲がっていると感じてしまうのは傲慢なのかもしれない。


少し前の日本人が遺したエピソードを披露し、日本人って素晴らしいと悦に入っている人達をSNSではよく目にする。
エピソード+海外の人のコメント(お褒めの言葉)がセットになっているのがパターンで、自分達の数世代前の祖先の功績さえ、他国の人のお墨付きがないと自信を持って認めることができない。昭和後期に蔓延した自虐の裏返しにしか見えないし、過去の功績(現代ではない、もちろん自分の成果でもない)を自信なさげに披露して満足を得ようとする軽薄さは、我々日本人の美徳からは大きく外れたものだと思うが、恥を感じないのだろうか。

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